卒業文集に、「将来の夢」という欄がありました。
まわりのクラスメイトは、すらすら書いていきます。
ケーキ屋さん。サッカー選手。看護師。
あなたの鉛筆は、そこで止まっていたかもしれません。
書きたいことは、あったのかもしれません。
ただ、どう書けばいいのか分からなかった。
大人になると、同じ欄がまた出てきます。
就職の面接では「五年後のあなたは?」
面談では「今後のキャリアの方向性は?」
聞き方は変わっても、欄の形は同じです。
そしてまた、手が止まります。
この記事は、その止まった手の話です。
「何になりたい?」には、名詞しか入らない
「何になりたい?」という問いを、文の形から見てみます。
「何に」なる。
ここに入るのは、名詞です。
先生。エンジニア。部長。お母さん。
職業や肩書き、社会での役割の名前が並びます。
では、こんな答えはどうでしょう。
人の話を、最後まで聞ける人でいたい。
夕方の空の色が変わるのを、ゆっくり見ていられる暮らしがしたい。
どちらも、ちゃんとした答えです。
でも、「何に」の欄には入りません。
名詞ではないからです。
「何になりたい?」は、答えの形があらかじめ決まっている問いでした。
その形に合う答えを持っていない人は、「答えられない人」になります。
「何」と「誰」は、違うもの
哲学者のハンナ・アーレントは、人について語るとき、ふたつのことを分けて考えました。
その人が「何」であるか。
その人が「誰」であるか。
「何」は、外から見えるものです。
職業、才能、性格、役割。
ほかの人と比べたり、並べたりできます。
「誰」は、そうはいきません。
アーレントは、人が誰であるかを言おうとすると、言葉がいつのまにか「何であるか」の説明にずれていく、と書いています。
「誰」は、その人が実際に何をして、何を言ってきたかの中にだけ現れる、と考えたのです。
こう見ると、「何になりたい?」の正体が分かります。
この問いは、あなたが「誰」なのかを、「何」であるかで答えさせようとしていました。
答えられなかった人は、空っぽではなかった
「何であるか」の答えは、選ぶものです。
社会には、職業や肩書きのリストがあらかじめ用意されています。
その中からひとつ選べば、欄は埋まります。
「誰であるか」は、リストから選べません。
毎日の中で、少しずつ形になっていくものです。
だから、すぐには言葉になりません。
欄を前にして手が止まったのは、空っぽだったからではありません。
リストにないものを、持っていたからです。
すらすら書けたひとが、間違っていたわけでもありません。
「何」で言える夢を持つのも、ひとつの答えです。
ただ、「何」で言えない答えもある。
それを書く場所が、今まで用意されていなかっただけです。
次に誰かから「何をしている人ですか」と聞かれたら、答える前の一瞬に気づいてみてください。
職業の名前を言うまでの、ほんの短い間。
そこに、「何」ではない、あなたがいます。
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